おしまコロニーの機関誌「ゆうあい」は隔月で、御家族の方々をはじめ、全国各地の施設・関係機関、団体等に配布されております。多くの方々の寄稿文、実践活動やイベント、エピソードなどを交え、みなさまに近況をお伝えしております。

 

2016年6月号


おしまコロニー the 50-year history 1967 - 2017


来年、平成29(2017)年、「おしまコロニー」は開設50年という大きな節目の年を迎えます。この間、一貫として「生涯教育」の理念を掲げ、いかなる世代の人たちでも支援を受けることが出来る体制の構築を目指し、その歩みを重ねてきました。そこで、今年度の「ゆうあい」巻頭頁では、5回にわたってその半世紀の足跡を辿ってみたいと思います。



 

Ⅰ.構想期 時代から必要とされて

-前史から、おしま学園開設まで-


昭和28(1953)年9月 七重浜保育園開設

昭和38(1963)年6月 社会福祉法人侑愛会設立

(理事長 大場茂俊)

理事長夫妻、欧州視察

昭和42(1967)年10月 おしま学園開設


七重浜保育園の開設

「おしまコロニー」の歴史は、昭和42(1967)年に開設された「おしま学園」から語られます。しかし、そのルーツを辿るには、昭和28(1953)年に誕生した「七重浜保育園」までさかのぼる必要があります。「おしま学園」が「おしまコロニー」の礎であるなら、「七重浜保育園」は「社会福祉法人侑愛会」の母体と呼ぶべき存在であるからです。

「七重浜保育園」が出来た当時は戦後の混乱がまだあちこちに残り、誰もがその日生きるのに必死に働いていた時代でした。「七重浜保育園」があった地域には水産加工場があり、主婦がその働き手としての役割を担っていましたが、当時の上磯町には保育所がありませんでした。そこで、地域の強い希望に応えるかたちで「七重浜保育園」は開設されました。

障がい児との出会い

その園児の中に、知的障がいがあると思われる子どもが数人いました。共働きの家族、地域の子どもたちを支えることを役目とした以上、障がいの有無は問題にはしませんでした。障がいのない子どもたちと分け隔てのない保育をする一方で、今でいう個別学習や指導を行い 、卒園後の進路等家族からの相談にも親身に乗るようになります。社会の片隅に取り残されたような障がい児やその家族の窮状を目の当たりにするにつれて、その後の事業の方向性が明確になっていくことになります。

個別学習の様子

個別学習の様子

当時の保育所に法人格はありませんでした。しかし、本格的に障害福祉の分野に踏み込んでいくためには「個人経営」から、社会的責任を明らかにした「法人化」への衣替えが必要でした。そうして、昭和38(1963)年に「社会福祉法人侑愛会」が設立されました。「七重浜保育園」開設から社会福祉法人設立までの10年間は、障がいのある子どもたちに対する福祉、教育、医療などのあるべき姿を模索する期間だったと言えるでしょう。そのことが、障がいのある人たちの「一生涯」を想定した「おしまコロニー」という青写真につながっていきます。

おしまコロニーの青写真

「おしまコロニー」最初の施設、「おしま学園」が開設するまでの道のりは決して平坦なものではなく、多くの困難がありました。その困難には大きく二つの側面がありました。

一つは、「おしまコロニー」という構想が当時あまりに壮大であったということです。もう一つは、地元の方たちからの理解がなかなか得られなかったことでした。社会福祉法人を設立した同年、理事長(故大場茂俊前理事長)夫妻は欧州視察に出かけています。オランダでは、一人あたりの居住スペースの広さに驚きました。障害のある人たちの生涯を支える総合的な施設を建設するためには、時々のライフステージに応じた施設機能や設備が必要とされる。小さい建物で窮屈な暮らしを強いたくはない。そのためにも最低でも10万坪の広さはほしい、と考えるようになったそうです。また、デンマークではノーマライゼーションの思想に触れます。実際の青写真には、施設ですら構想の段階にも関わらず、施設を出た後の地域展開までも想定されて描かれているのですから驚きです。

財源と土地探しには大変な苦労がありました。何しろ敷地面積10万坪です。それと、強い反対運動。時代を先読みしていたが故の逆風だったのかもしれません。順風満帆の船出とは決していえない中の昭和42(1967)年10月、精神薄弱児施設「おしま学園」が開設されました 。それを皮切りにして、堰を切ったかのように次々と施設が作られていくことになるのです。

開設時のおしま学園

開設時のおしま学園


一口メモ

「侑愛」とは人と人との慈愛を表し、ともにあり、ともに育ち会う社会を願って名付けられた

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