社会福祉法人侑愛会 学校法人ゆうあい学園沿革軌跡

         
創設者大場茂俊写真

創設者のことば

  

人間は常に未完成である。だから絶えず教育されなければならない。
幼い子はもちろん知恵おくれの子等も恵まれた環境と指導のもとでより大きく成長し又は社会復帰も可能となる。
この事業にたずさわる人々は皆執念の人でなければならない、執念によってこそ、この道も拓かれる。(1967年)

 
 

おしまコロニーは1953年、創設者大場茂俊が開設した七重浜保育園が基になっている。
  保育園の開園とともに明らかに知的障がいと思われる子供たちが入ってきた。何の気負いもなく、ごく自然な形で受け入れ、いつの間にかそういう子供たちを園長室に集めて、今でいう個別指導が行われた。どこにも障がい児を受け入れる所はなく、卒園して小学校に入学しても途中で戻ってきて結局保育園で預かったりしていた。この時期大場茂俊の中にひとりひとりの子供に最もふさわしい形で教育環境を整えてやれないもどかしさが積もり積もっていた。

                                                                                   

1963年保育園開園10周年を契機として法人化し「侑愛会」と名付ける。また、この年施設を作る目的でヨーロッパ、アメリカと施設視察を行った、すでにおしまコロニーの青写真は大場茂俊の胸の中にできあがりつつあった。1967年、現在の「おしまコロニー」という総合施設が、その歴史の一歩を踏み出す母胎となった児童施設「おしま学園」が誕生した。

 

ここに一枚の古い図面がある。「転用候補地に建設しようとする建物または施設の面積・位置及び建物間の距離を表示する図面」と仰々しく標記された配置図には、およそ十万坪に及ぶ広大な土地のあちこちに、様々な建物や設備が、ある物は詳細にある物は粗雑に書き込まれ、左脇に、それぞれの建設予定年度と予定面積が示されている。一見して、素人の手によるものだと分る。

古い原図

創設者大場茂俊の記憶に問えば、これは、昭和41年、クイの一本もまだ打たれていない「当別」の小高い原野に、彼がコロニー建設の夢を馳せた、その構想をそのままに書き表したものである。創設者達は、これを手に勇み立つ想いを抱いて奔走したのだろう。後に言う「地図にない村・おしまコロニー」の原型がここにある。

図面の中の詳細な部分は、既に計画が出来上がり、資金のメドもつき、着工が間近にあったものだろう。翌年、ほぼこれに基づいた形で「おしま学園」が開設されている。しかし、ここで興味を引くのは、むしろ粗雑に書かれた部分、両隅の下に小さな四角で囲った二つの建設予定施設、「アフターケアセンター」と「青年寮(または収容授産施設)」であり、同じく下方の「小舎棟」であり、少し丁寧に書かれた「診療所」である。 これらは全て、現代の「施設」が主要な課題とする事業である。また、現在の「おしまコロニー」が重要な責務とする事業である。即ち、「アフターケアセンター」は、地域に就労し、自立を志す者たちの拠点であり、「青年寮」は、その前期訓練を施す場であり、「小舎棟」は、暮らしの場をそれに相応しく小規模化するグループホームであり、「診療所」は、多種の医療専門家集団が地域に進み出て早期発見・早期療育と取組む「地域療育センター」である。

この他にも、学校があり、研究所かあり、ゲストハウスがあり、いくつかの工場がある。これはもう、単に平面的な「施設」の図面ではない。また、単に思い付きで奇をてらったものでもない。ここには、知的障がいという障がいを持つ人々の全生涯を見通した、治療と教育と支援の一貫した構図がある。図は、大きな一つの区画に囲われているが、そこに生み出される様々な事業は、予期されていたかどうかにかかわらず、それらが内包する意図とエネルギーによって、いずれ必然的に四方に拡散されるものとなるだろう。

創設者たちは、このように透徹した思想と確信を抱いて、未開の原野に、無限のクイを打ち込んだのである。 「おしまコロニー」の歩みは、人里から遠く離れた台地に生み出されたものが、しだいに人里へ転移する、人里へ立ち戻る軌跡を見せる。つまり、鈍重ではあるが、確実な「地域参加」への歩みである。

そして、その歩みは二つに分かれる。一つは、障がいを持つゆえに地域からこぼれ出た者が、自ら力を蓄えてえて、地域へ回帰する歩みであり、また一つは、彼らを育成する過程で培われた、専門家集団の技量と技法を、地域で回生する歩みである。

前者は、「アフターケアセンター(地域生活支援センター)」を中核とする、通勤寮・グループホーム・作業所等の就労自立援護事業に集約されるだろう。この道は、成人育成部門新生園、明生園、侑愛荘、函館青年寮、同通所部、はまなす寮等)が主体となって切り開かれた。例えれば、成長する樹木が天空に枝葉を広げるように、閉じ込まれた知的障がい者の生活を、地域の中へ解き放ち、作って行く。

後者は、「地域療育センター」を中核とする、母子訓練・生活能力訓練・外来及び巡回診療等の在宅療育事業に集約されるだろう。この道は、乳幼児・児童育成部門〈三保育園、幼稚園、つくしんぼ学級、おしま学園、第二おしま学園、養護学校等が主体となって切り開かれた。例えれば、成長する樹木が大地に根を張るように、置き去られた知的障がい児の支援を、地域の中で探りまとめ、作って行く。

いつ頃からか、この二つの事業は、意図的にではなく必然的に、両者が分担し競合する形で進められている。創設時に描かれた構図に拠って、夫々が夫々の課題を追求し取り組むうちに、その解決を指し示す方向として、夫々の道がしだいにはっきりと見えて来たのである。当初の構図の中では、夢幻のものであったかもしれない。それが、夫々の実践をを集積する過程で、現実のものとして望まれ、具象化されて来るのである。そして、夫々の方向に夫々の専門家が育って行った。これは、事業の結実を重視する、おしまコロニーの特質ではないかと思う。  
ただし、この場合、理念や形式が先にあったのではない。また、事業が事業を誘い求めたのではない。描かれた構図はいかようにも変容できるものである。これまでの歩みの実際において、その理念や形式を教えたのは、そして、その事業を作ったのは、他でもない、「個々の知的障がい者」である。

おしまコロニーは個別のケースを重視する。個別に異なる問題の解決を優先する。それが、多岐に亘る事業群を生み、「個々の知的障がい者」のための、帰納的かつ機能的な組織を作り上げた。これもまた、おしまコロニーの特質である。

この子らを世の光に記念碑写真

障がい児の父、糸賀一雄先生のこのことばは、同じ道を歩む者の、とこしえの銘である。 1951年、先生はトラピストの鐘の音のきこえるこの地を訪れ、我が国最初の農業コロニー建設の夢を抱かれた。くしくも、創立者大場もこの地を選ぶことになった。この碑は、おしまコロニー開設30周年にあたり創立者大場茂俊・光夫妻の深い愛情と長年の御苦労に感謝し建立する。
1997年10月5日 記念事業協賛会

top